場面11:「肉つきの面」 - 1
「五色園を彩るコンクリ像たち」シリーズの第3回目です。前回のコンクリ像シリーズでご紹介した「川越の名号」を超えて北に進むと、いろいろな場面が目に入ってきます。
でも、まずは墓地と調整池の方向、東へ曲がってみましょう。そこには、鎌を振り上げた恐ろしい般若のお面をかぶった老婆が・・・(;・∀・)
おっかないですねえ、不気味ですねえ、でもどっかユーモラスでもありますねえ・・・浅野祥雲らしい、キッチュな雰囲気がたまらない造形です♪
場面11:「肉つきの面」 - 2
これは「肉つきの面」と言う場面なのですね。鎌を振り上げた般若のばーさんに向かって、「きゃ~、来ないで~」と、手を突き出している女性がいますね。どことなく動作が不自然でぎこちないのが、浅野祥雲っぽいです。^^
場面11:「肉つきの面」 - 3
横に添えてある立て看板には、下記のような文言が書かれておりました。
『蓮如上人が、越前(福井県)の国、細呂木の郷吉崎において御教化されているころ、少し離れた金津というところに与惣次という農民が住んでいました。
与惣次は夫婦ともに念仏の信者であり、仕事を終えると毎夜のように山道を駈けてお参りにでかけていました。しかし、ひとり残された老婆はそこのとが気に入りません。そのため大の仏法嫌いになっていました。
ある晩、二人をおどかして吉崎通いをやめさせようと、老婆は鬼の面をかぶり暗がりで待ち構えました。そこへ嫁がひとり先にやってきました。老婆はこれ幸いと鬼女になりきり飛び出しました。
「我こそは白山権現の使いなり。汝らは蓮如にたぶらかされ仕事を怠け老婆の意に背き、吉崎へ通っている。こらしめてくれん。」老婆はただおどかすつもりだったのですが、嫁は鬼を見ただけで動転し、一目散に逃げ帰ってしまいました。
そして次に息子がやってくる前、しばし待つ間鬼の面をはずそうとするのですが、どうしたことかどうやっても面は顔に食い込みはずれません。
あまりの恐ろしさに老婆は声をあげて泣き始めました。そこえ息子がやってきて、顔を隠した母にわけを尋ねますと涙ながらにことの次第を話しました。
話を聞いた息子はすぐに母を連れて嫁とともに吉崎へ戻り、蓮如上人より御仏の教えをいただきました。そして老婆はそのありがたさに思わず手を合わせ念仏を唱えました。
すると、不思議なことに鬼の面はポロリと取れて落ちました。しかしその面には無理に引き剥がそうとしたため、顔の肉の一部がこびりついていたのでした。』
場面12:「親子悲願仏」 - 1
「肉つきの面」の場面から墓地を背後にして、南へ向かいます。ううむ、ここはちゃんとしたルートなんだろうか・・・・不安になるような細い獣道です。しばらく歩いていくと、不気味な動物が二匹、火の玉を抱えて立っています。
場面12:「親子悲願仏」 - 2
その情報を見ると・・・おお、仏様ですね。
場面12:「親子悲願仏」 - 3
これは「親子悲願仏」と呼ばれる場面のようでした。
説明用の立て看板の文字はすでに読めなくなっており、どういう意図のものなのか、判然としませんでした。
火の玉を捧げ持った動物の造形を見ると、浅野祥雲の作品であることは間違いないと思います。
なお、ここからさらに南に歩いていくと、前回の特集で登場した場面9:「御流罪」に至るんじゃないかと思います。
まだ未確認ですけどね。
場面13:「鹿ケ谷鈴虫松虫の剃髪得度」 - 1
「親子悲願仏」から「肉つきの面」を経て、メインストリートに戻ります。南東側の一段低くなった盆地を見ると、こんな女性たちがおりました。
場面13:「鹿ケ谷鈴虫松虫の剃髪得度」 - 2
その女性たちの前には、お坊さんと思しき人々がいます。ううむ、抜刀してる感じでしょうか・・・緊張が走る不穏な雰囲気です。
場面13:「鹿ケ谷鈴虫松虫の剃髪得度」 - 3
でもその後ろには、のほほんと草鞋の紐を締めなおす、脱力系のお坊さんがいます。
場面13:「鹿ケ谷鈴虫松虫の剃髪得度」 - 4
さらにその後ろには、礼拝中のお坊さん3名がいます。左のお坊さん手の上には、例によって黄色い巻き〇ソっぽい造形物・・・う~ん、シュールだ・・・ちなみに、説明用の立て看板には、下記のように書かれていました。
『勢力を強める吉水の法然門下に対し危機感をもった他宗派は、興福寺を代表として朝廷に対し吉水教団の撲滅を願い出ました。そのため御所では念仏停止の是非を論ずる評議が行われることになりました。
そのころ、法然上人の弟子、住蓮と安楽は鹿ケ谷の草庵において六時礼賛による声明念仏という御法事を営み、御仏の功徳を人々に説いておられました。
ことに、二人の声は先を急ぐ人も思わず足を止め聞き入ってしまうほどであり、そこを通りかかった院御所女房の鈴虫と松虫も深い感動をおぼえたのでありました。
以後、機会を見つけては聞法に通うようになった鈴虫と松虫は、後鳥羽上皇が留守のある晩ひそかに御所を抜け出し鹿ケ谷の声明念仏に結縁しました。
安楽らの説法と声明に心をゆさぶられた二人は憂き身をやつす我が身を思い、弥陀の本願に救われるという事実にふれ、発心して尼となったのです。 このことを知った上皇は烈火のごとく怒り、興福寺の訴えを取り上げ念仏停止の裁断を下しました。』
ううむ、これを読んでもこの場面に出てくる人物たちが、が何を表しているのか、よくわかりませんでした。この説明書を書いた人と浅野祥雲氏にディレクションを出した人は、コミュニケーションが取れてないっぽいです。
そもそも五色園のコンクリ像の造形は、ここを作った僧侶の森夢幻師が場面ごとのコンセプトを作っていたのでしょうか。それとも浅野祥雲先生が独断で場面の絵柄を決めていたのでしょうか・・・
五色園の場面には、説明書きとシンクロしない難解なものも混じってますね。そこが浅野祥雲らしいと言えばそうなのかもしれませんが。(;・∀・)
場面14:「日野左衛門門前石枕」 - 1
さて次の場面へ移動します・・・場面14は公衆WCの手前にあり、凄く目立ちますからすぐにわかります。ZZZ...親鸞聖人と思しきお坊さんが寝ておりますね。
場面14:「日野左衛門門前石枕」 - 2
その左側を見ると、巨大なアーモンドを付着させた棒を所持した人物が立っています。あ、これ、アーモンドじゃなくて、炎の造形なのか。(;・∀・)
場面14:「日野左衛門門前石枕」 - 3
「暗いでしょ、どうぞっ」と、巨大な照明を差し出す女性です。すみません、広角側にズームして遠近感を誇張して遊んでしまいました。(-_-;)
場面14:「日野左衛門門前石枕」 - 4
全景はこんな感じでした。ちなみに、説明用の立て看板には、下記のように書かれていました。
『日野左衛門尉頼秋は常陸の国(茨城県)に流刑になり、その後自由の身となっても故郷には帰らず金貸しをしてそこに居を構えていました。
左衛門は生来の人間不信で、また流罪後それは一層強まり「信じられるものは銭しかない。」とうそぶくようになっていました。
ある年の晩秋、左衛門は借金の取立てに廻りましたが、逆にことごとく延済を申し込まれたことに腹を立て夕刻からやけ酒をあおっていました。
外はいつの間にか冷え込んで雪になっています。そんな左衛門が女房に当り散らしているところに、布教途中の親鸞聖人が一夜の宿を求められましたが、すさんだ心の左衛門は言下に断ったのでありました。
やむなく聖人は軒先で夜を明かすことにしました。聖人は門前の石を枕として横になりましたが、雪は次第に吹雪となって全身を包みます。親鸞聖人は身体を横たえながら念仏を繰り返し唱えました。
夜半、左衛門の夢枕に観音菩薩が現れ「左衛門、なんじ知らずや、いま門前に阿弥陀如来が泊まらせたまうぞ。早く教化をこおむるべし。この機を逃せばなんじは未来永劫、苦海をのがれられぬぞ。」と告げられました。
このお告げに驚いた左衛門はとびおきて家を出てみました。するとそこに映るのは吹雪のなか一心に念仏を唱える親鸞聖人のお姿でした。
あわてた左衛門は平身低頭無礼を詫び、親鸞聖人を家へ迎え入れこれまでの悪行をすべて告白しました。親鸞聖人は「私たちは悪いことばかりしています。人を憎み呪いもします。だが、汚れきった心であっても信じる心だけは誰にでもあるもの。その心こそが永遠にかがやく仏の光なのです。」
とねんごろに御仏のご慈悲をお話になりました。大慈大悲の阿弥陀仏の本願を知らされた左衛門はその夜のうちに親鸞聖人のお弟子となり、法名を入西房道円と名付けていただきました。 その後道円は念仏道場を開き、石を枕に念仏する親鸞の姿を重ねそこを枕石寺と名付けました。』
場面15:「森夢幻師像」
さて、次の場面に移動します・・・西に向かうと、こんな像が北側に見えます。これは、この五色園を作った森夢幻師の像だそうです。結構リアルな造形ですね・・・浅野祥雲さん、現実の人物を作らせると写実的になるようです。
場面16:「五劫思惟仏」 - 1
再度、メインストリートに戻り、大安寺の前の駐車スペースを南下し、宿坊を目指して歩いていきます。
宿坊の南端の連絡通路の向こう側に、こんな人影が見えますね。
若い男の人でしょうか・・・でも、おばさんにも見えますね・・・年齢性別不詳のコンクリ像でした。
場面16:「五劫思惟仏」 - 2
これは「五劫思惟仏」と言う場面のようです。
説明書きがないので、詳細不明です。
場面16:「五劫思惟仏」 -3
この痩せた仏様が「五劫思惟仏」なのでしょうか・・・
ところで、五色園の宿坊は宗教関係者じゃなくても利用できるようです。ここで写真合宿やったらおもしろそうですねえ、夜中に散歩したらコンクリ像が動いてたりして。(;・∀・)
場面17:「六角堂御参籠 雲母坂お通い」 - 1
宿坊の南端にある広場を突っ切ってさらに南下すると、次の場面が見えてきます。お坊さんが、「あっと驚く為五郎」的に手を広げていらっしゃいます。
場面17:「六角堂御参籠 雲母坂お通い」 - 2
こちらは親鸞聖人だそうです・・・なんとなく顔面蒼白ですねえ。(;・∀・)
場面17:「六角堂御参籠 雲母坂お通い」 - 3
親鸞聖人の後ろ姿も、どことなく凄愴感が漂っております・・・個人の感想です。(;・∀・)
場面17:「六角堂御参籠 雲母坂お通い」 - 4
ちなみに、説明用の立て看板には、下記のように書かれていました。
『親鸞聖人は九才の春より二十九才の春まで比叡山でご研学を重ねご修行をつまれましたが、もはや自分の求めている解答を得ることはできないと考えていました。
「阿弥陀如来はその本願をもって、どのような生業をなす人でも必ず救って往生させると約束している。しかし、魚や獣などの殺生をなす者や商人・女性・聖などはその前生の悪行ゆえに往生できないとされている。
その上、阿弥陀如来を拝することさえ拒絶され一段低い聖徳太子への信仰が許されているだけである。これはどこかで信仰の本質が見失われてしまったからではないか。」
ついに、聖人は救いを求めるために正月早々より百日間、六角堂に参籠し如意輪観音にご祈祷されることを決意されたのでした。
そして比叡山より六角堂まで三里十八丁もの距離を毎夜、雲母坂という険しい山道をとおり往復されました。この雲母坂はその険しさゆえ、昼でさえも行き悩むところでありましたが、聖人は夜中寒風吹きすさぶ中、どのような天候であっても一日も休まず通われたのでありました。
弟子の正全房が聖人が毎夜山を抜け出ることを不信に思いあとをつけて行きましたが、雲母坂の雪を血潮に染め、蔦をたどり必死の思いで六角堂に向かわれる聖人のお姿に驚くとともに涙ながらに拝まずにはいられませんでした。』
なるほど・・・親鸞聖人って、仏教でより多くの人々を救うことを考えていたんだ・・・浄土真宗はプロテスタント的だと言われることがありますが、それ、わからないでもないです。^^
(4)へ続く
愛知県日進市岩藤町一ノ廻間932番地31 五色園にて
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