場面1:「月見の宴」-1
ペンキを塗られた童子の像・・・実はこの幼子は、浄土真宗の開祖である親鸞聖人の幼いころなんだそうです。ここは愛知県日進市にある日本で唯一の宗教テーマパーク、五色園です。
この五色園は、昭和9年(1934年)に、大安寺初代管主の森夢幻師により、視聴覚伝導を目的に設立されました。五色園の名前は、20万坪の広大な園内に植えられた松竹梅、桜、紅葉の五種の樹木の彩りから由来しているのだとか。
この森の中には、身長約2mのコンクリート像100体あまりが点在しています。そのコンクリート像によるジオラマで、浄土真宗の開祖、親鸞聖人の生涯や教えにまつわるさまざまなエピソードを再現しています。
昭和16年当時のパンフレットによれば、敷地は今よりもずっと大きかったようです。本堂や宿坊などの宗教施設の他、温泉や動物園、弓道場なども備えた一大テーマパークでした。
その目玉となる、大スケールジオラマの製作を一手に引き受けたのが、浅野祥雲氏でした。浅野祥雲氏は昨今はメディアに取り上げられることも多くなり、全国にファンが存在するコンクリート仏師ですね。昭和5年頃から製作に取りかかり、当初は名古屋市熱田区の自宅で作った作品を牛車に積み、約20km離れた現地まで運んでいたそうです。
2m級の巨大なコンクリ像を100体近く制作し、一体ずつ牛車で運ぶ・・・気の遠くなる偉業です。
まさしく浅野祥雲氏のコンクリート像の聖地の一つ、と言えるのではないでしょうか。
園内には真宗の教えにまつわる17場面をはじめ、全24場面のジオラマが点在しているそうです。でも、私がカウントすると23場面しかないんですよね、どっか見落としているかもしれません。(;・∀・)
園内は広大で、徒歩で周遊するには1時間以上かかり、ゆっくり写真を撮りながら歩いていると、一日が潰れます。舗装道路が園内に通っているので、場面から場面への移動は車でもOK、サファリーパーク感覚でジオラマを鑑賞できます。
ただし、中には山道を数分上らなければ見られない場面や、雑木の間に隠れて見えない場面もあり、完全踏破は至難の業です。でも今回、根性出して全場面を回って写真を撮ってきましたよ、各場面を順番にご紹介していこうと思っています♪我家も浄土真宗大谷派なのに、初めて知ることがたくさんありました。^^
場面1:「月見の宴」-2
五色園に入園して、最初に目撃するのがこの場面です。車座になった人々がおりますねえ・・・この場面の横に立てられた看板から、その状況解説を下記に記しておきます。
場面1:「月見の宴」-3
『親鸞聖人(松若君)は日野の里、法界寺のほとりでお生まれになりました。父君は藤原有範卿、母君は吉光御前といわれる方で、平安時代の貴族の長男としてお生まれになりました。 信心深い母君、吉光御前が常に長谷寺の観音に念じて藤原家の跡継ぎを願われ、観音の申し子として生まれたのでありました。
ところが、松若君は二歳になられても口を一文字に堅く閉じ片言も話されませんでした。まわりの人々は奇異の感に打たれていました。
そんな八月の十五夜、人々は月見の宴を催されました。 父君、藤原有範卿のひざに抱かれてじっと空を見上げておられた松若君は、月が天中高く冴え渡ると同時につかつかと前に出られて、両手を合わせ月を拝み「なむあみだぶつ」と一声称えられました。人々はその声を聞いて驚き喜びの声をあげるとともに、松若君が非凡の和子であると歓喜せられたのでありました。』
場面1:「月見の宴」-4
なるほど、これは月見を愛でる人々のジオラマだったのですね。
このプロジェクトには、祥雲氏のご親族が営む塗装店や祥雲作品の修復を手掛けられた左官職人さんたちも参加しているそうです。
場面2:「信行両座」-1
「月見の宴」を超えてしばらく北東に歩くと、右手に必死の形相で疾走する僧侶が見えてきます。刀を差しているように見えるので、僧兵なのかも。
場面2:「信行両座」-2
この僧侶が向かっている先には、たくさんの僧侶が座っています。
場面2:「信行両座」-3
浅野祥雲らしいキッチュな造形がたまりませんねえ。アカデミズムとは無縁、ヘタウマゆえの強烈な存在感です。
場面2:「信行両座」-4
横に添えてある立て看板には、下記のような文言が書かれておりました。
『親鸞聖人が法然上人の下、吉水の草庵に通っていたある日、法然上人に許しを得て門弟たちを信の座「信不退」と行の座「行不退」の二つの席に分け、どちらの考えでいるか明らかにしました。
「信不退」とは、弥陀の本願を信じるだけで生涯信心を失わない不退転が得られると信じることをいい、「行不退」とは本願を信じてなお、不退転を得るためには念仏の行を積まなければならないとする考え方です。
ほとんどの門弟たちは行の座に着座しましたが、高弟の信空、のちの「唯信鈔」を書いた聖覚は信の座に着きました。そしてそこに遅れてきた熊谷蓮生房が事の次第を聞き、慌てて信の座に着きました。
続いて親鸞聖人も信の座に着座し、これで一同が着座してざわめきが鎮まると、法然上人もおもむろに「私も信の座に着こう。」と言って「信不退の座」に着きました。このとき行の座を選んだ門弟たちは一応に驚き、自らを恥じまた後悔しました。』
場面3:「赤山明神貴婦人解逅」-1
「信行両座」を超えて北西を見ると、竹林の中に鮮やかな青と赤が見えてきます。
場面3:「赤山明神貴婦人解逅」-2
藪の中に入るとこんな像が・・・掌の上には何やら黄色いとぐろを巻いたように見える物体が載っていますが、巻き〇ソってことはないよなあ。(;・∀・)
場面3:「赤山明神貴婦人解逅」-3
横に添えてある立て看板には、下記のような文言が書かれておりました。
『親鸞聖人二十六歳のとき、都からの帰路、比叡山の麓にある赤山禅院にお参りされました。聖人が神前で静かに念誦していると、陰から美しい女性が現れました。そして聖人が比叡山に帰ることを知ると「私も年来このお山に参詣したいと思っておりました。どうかご一緒させていただけないでしょうか。」と懇願しました。
しかし聖人は「比叡山は、舎那円頓の峰高く、止観三密の谷深く、五障(女は梵天・帝釈・魔王・転輪王・仏になれない)三従(幼いときは親に、結婚すれば夫に、老いぼれれば子に従う)の女性は入山することができないのです。法華経にも女性は垢穢にして、仏法の器に非ずと説いております。それ故、伝教大師も結界の地と定めたのです。」と答えて入山できないことをお説きになりました。
それを聞いた女性は「たしかに女性は五障三従のさわりがあり成仏できないといわれています。しかし伝教大師も、一切の衆生にはすべて仏性があるとおっしゃっています。鳥や獣にいたるまで、男女の別はありますが、女人だけを除いてはたして真実の悟りに達することができるでしょうか。」と嘆きました。
そして「どうか貴僧は、末世の女人の善知識となって御仏の慈悲が届くようにお力添えをお願い申し上げます。」と言って袖から白絹に包んだ玉を取り出し聖人に差し出しました。
「これは、闇夜を照らす玉です。なにとぞ御仏の教えを低く卑しい谷に下して、あらゆる人々を導いてください。」そう言うと、女性の姿はどこともなく消えてしまいました。』
場面3:「赤山明神貴婦人解逅」-4
初めて知りました・・・仏教って、昔は強烈な男尊女卑だったんですね。(-_-;)
場面4:「桜ヶ池大蛇入定の由来」-1
「赤山明神貴婦人解逅」を過ぎて北東に進むと、池が見えてきます。
その池の東側に行くと、こんなジオラマが見えてきます。この造形は何なんでしょうか・・・
場面4:「桜ヶ池大蛇入定の由来」-2
道路沿いから池越しに見るとこんな感じです。二人の人物が対峙しているようです。
場面4:「桜ヶ池大蛇入定の由来」-3
僧侶と水しぶきを上げるおじいさんが立っておりました。先ほどの水色の凸凹したコンクリ造形は、どうやら水しぶきの造形だったようですね。浅野祥雲流に表現すると、水のスプラッシュもこうなっちゃうようです、いいなあ、このなんともB級な感じ。^^
場面4:「桜ヶ池大蛇入定の由来」-4
横に添えてある立て看板には、下記のような文言が書かれておりました。
『肥後(熊本県)の国の光円阿門梨は弥勒菩薩の御出世を待つために、遠州(静岡県)桜ヶ池に入定されたとあります。比叡山の学頭聴として名声四方に聞こえた阿門梨もふと未来の問題が悩ましくなり、その悩みは更に大きく広がって行くばかりです。
「日本広しといえども、到底未来の問題を解き顕せる聖者はおるまい。わたしの信頼できるのは釈迦如来か又は弥勒菩薩より外にはない。しかし釈迦にはおくれ弥勒に早い今の世に、満足できる生身の仏がない以上、私は弥勒菩薩の御出世に会いたい。しかし人間の寿命には限りがあるが、動物の中でも大蛇は長寿第一という。我が魂も大蛇に入定したい。
この発願のために見出されたのが桜ヶ池であります。そこで阿門梨は池の水を比叡山に持ち帰り、六年の苦行の結果その一念は桜ヶ池に飛び大蛇と化して入定させられたのでした。
これを聞いた法然上人は嘆き、如何にしてでも我が悟る所の他力の要路を、師阿門梨に告げたいものと池の面を尋ねられました。すると一天にわかに掻き曇り、雷鳴しきりに鳴り渡り、千尋もある大蛇が現れました。
法然上人は、他力の教法についてねんごろに説かれましたが、時既に遅しと大蛇は嘆き、両眼から涙を流します。入定の時、苦行に耐えて貴方の御出世を待ちますから済度の幸せを賜れとの弥勒菩薩への誓いは捨てられぬと、さめざめ嘆きながら水底へ帰られました。』
場面5:「身代わりの名号」-1
「桜ヶ池大蛇入定の由来」の池の北西側を見ると、こんな看板がありますので、中に入ってきます。
仏教の世界では、「南無阿弥陀仏」の六字を「名号(みょうごう)」と呼ぶようですね。
場面5:「身代わりの名号」-2
そこには一心不乱に祈る女性と、拒否するように手のひらを突き出す男性がおりました。
場面5:「身代わりの名号」-3
横に添えてある立て看板には、下記のような文言が書かれておりました。
『常陸の国、川和田に住む平次郎は大の仏法嫌いで邪険な男でしたが、その妻おすわは親鸞聖人の教えを熱心に聞き求める信心家でした。
平次郎はおすわが法話に参詣するたび暴力をふるいます。それを知った聖人はおすわに十字の名号を書き与え、法話に参詣しなくてもそれに礼拝するよう伝えました。そしてそれからおすわは、平次郎に見られないようにしてこっそり名号に礼拝していました。
ある日おすわがいつものように平次郎の留守時に、名号を取り出し礼拝していると、外から平次郎が帰ってきました。平次郎は、妻以外誰もいないはずなのに誰かに話し掛けるような妻の声に不信を抱きました。そして妻が浮気をしているのではないかと激情下へ維持労は嫉妬の刃を振りかざして部屋に怒鳴り込みました。
しかしおすわはやはり一人です。 おすわは慌てて名号をふところに隠しました。それを見た平次郎は「今隠したものを見せろ!」と怒ります。
見せれば名号を破り捨ててしまうに違いないと思ったおすわは「こればかりは...」と許しを乞いました。そのさまに男からの艶文と思った平次郎は逆上しておすわを切り殺してしまいました。
そして血に染まったおすわの体を古菰につつみ裏の竹やぶに埋めて家に取って返すと、殺したはずのおすわが何食わぬ顔をして部屋の中にいます。
青くなった平次郎は事の次第をおすわに話すと二人で竹やぶに急ぎ、掘り返してみました。すると不思議にも死体はなく、血潮に染まった名号が「帰命」の二字より真っ二つになって出てきました。
おすわがふところを確かめると名号はありません。二人はあまりのことに涙を浮かべて地にひれ伏し念仏を唱えました。そしてその足で稲田に向かい親鸞聖人に事の顛末を話すと、聖人は阿弥陀仏の本願をねんごろに説かれ、平次郎も念仏の行者となりました。』
場面5:「身代わりの名号」-4
五色園を彩るコンクリ像たち(2)へ続く
愛知県日進市岩藤町一ノ廻間932番地31 五色園にて
SONY α7 III ILCE-7M3
Tamron 28-200mm F/2.8-5.6 Di III RXD (Model A071)
Adobe Lightroom Classic
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